2022年ベスト・コンサート
■3月12日(土)
名古屋フィルハーモニー第499回定期演奏会
〈井上道義のショスタコーヴィチ#8〉
@愛知県芸術劇場コンサートホール
【プログラム】
ハイドン:チェロ協奏曲第2番ニ長調 作品101(Hob.VIIb-2)*
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番ハ短調 作品65
名フィルでは4季ぶりの定期出演となった井上さんによる“スペシャリティ”。折しもロシア・ウクライナの戦火が激しくなってきたころに演奏されたプログラムは、ショスタコーヴィチの第8番でした。
第二次世界大戦中に書かれた第8番は、ショスタコーヴィチの「戦争三部作」と呼ばれる交響曲のひとつ。レニングラード包囲戦の渦中で生まれた第7番、戦勝を記念した第9番。そして、戦争の残虐さと犠牲者への追悼の意が強く込められた第8番です。
悲しみ、虚しさ、抗えなさが随所に表現されたパッセージ。タイミング的にも、ロシア音楽を演奏することが精神的に負担が大きい時期でしたが、それでも名演となったのは、井上さんの音楽の汲み取り方、向き合い方、オーケストラとの素晴らしいコミュニケーションあってこそだと思います。
若きチェリスト・佐藤晴真さんの整然と、そして典雅なハイドンのコンチェルトも素敵でした。晴真さんの演奏はCocomiちゃんのアルバムで初めて聴いたのですが、その魅力に夢中になり、今後も注目したい若手演奏家のひとりです。
来場を予定していなかったものの、2024年に引退を表明した井上さんの指揮をひとつでも見逃したくない、という思いで急遽チケットを取ったのですが、生涯忘れられない公演のひとつとなりました。
■9月11日(日)
世界のカルテット∽ カルテットの世界 SQ.80
アタッカ・カルテット
@宗次ホール
【プログラム】
L.v.ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第10番 変ホ長調 「ハープ」Op.74
P.ヴィアンコ:Benkei Standing Death(弁慶の立ち往生)
C.ショウ:Entr'acte (アントラクト)
C.ショウ:Evergreen(エヴァーグリーン)★日本初演
C.ショウ:Valencia(ヴァレンシア)
ずっとずっと聴きたかったアタッカ・カルテット、レギュラーメンバーでの来日公演。残念ながらVlaのネイサンの出演がキャンセルとなってしまいましたが、急遽ステージに立った牧野さんは、代演とは思えないほど素敵な演奏を聴かせてくださいました。
伝統と新しさを兼ね備えたベートーヴェンの弦楽四重奏、牛若丸と弁慶がともに過ごした時間を再現したヴィアンコの作品、緑の力強さを描いた「エヴァーグリーン」、じわりと果実が熟すような響きの「ヴァレンシア」、すべてが秀逸な表現力でした。
特別な音響機材を使うことなく、人の手技だけで、音の距離感や時系列をあれほど豊かに表現できるのか、と関心し尽くしてしまう音。
Vcのアンドリューは、牛若丸の話を「『オオカミ』というゲームで知った*」とのこと。型にとらわれず枠組みを飛び越えていく奏法や解釈の連続に、「だからアメリカの音楽が好き!」と、叫ばずにはいられない1日でした。
*2006年、カプコンより発売されたPlay Station®︎2『大神』。
■10月9日(土)
愛知室内オーケストラ第41回定期演奏会
ACO meets BPO シリーズ 第1回 マチュー・デュフォー
@三井住友海上しらかわホール
【プログラム】
ベルク:抒情組曲からの3つの小品(弦楽合奏版)
イベール:フルート協奏曲
メンデルスゾーン:交響曲第5番 ニ長調 作品107「宗教改革」
2022年は、フルートの音色に夢中になった1年でした。きっかけはCocomi嬢でしたが、この公演でマチュー・デュフォーの音色に惚れ込んだことが、拍車をかけたのだと思います。 8歳でパリの音楽学校でフルートを学び始めたときから、常に高い評価を得ているデュフォー。
イベールのコンチェルトももちろん申し分なかったのですが、アンコールでのピアソラが素晴らしかったのもまた僥倖。音の端々に感じるフランスのエスプリとフルートへの矜恃を、しっかりと感じます。
この日の指揮はアレクサンダー・リープライヒ。レコーディングで高い評価を得ている彼らしく、拍子のとり方やリズム感は安定感が抜群。精巧なベルクと丁寧に作り込まれたアンサンブルのメンデルスゾーンで、心地よいひとときとなりました。
本当はこちらに東京・春・音楽祭のムーティ、マーク・パドモア&内田光子、パリ管来日、BCJのメサイアを加えたかったのだけど、都合がつかず見逃してしまうことに。少しずつでも、来日演奏会が増えているのは嬉しい限り。来年は重い腰をあげ、関東・関西の公演へも足を運ぶ機会を増やしていければと思います(毎年言っているけれど)。
元日は毎年恒例の、ウィーン・フィル ニューイヤー・コンサートを眺めながら2023年の幕開けをする予定です。みなさまも、どうぞ健やかな新年をお迎えください。
ヘンデルの福音(イースターによせて)
「降誕節にはバッハを、復活節にはヘンデルを」が密かなモットーである。 ヘンデルは年末に演奏を聴く機会が多い作曲家だが、わたしのなかではイースターのあるこの時期にこそ聴きたい音楽でもある。《メサイア》がとりわけ有名であるが、受難から復活までにフォーカスしたオラトリオ《復活》も忘れてはならない。 あまり知られていないが、キリスト教ではこの“復活”というものがものすごく重要に語られる。ユダヤ教にはなかったものだからだ。 アドベントの、一週にひとつずつ蝋燭に火が灯されるあのワクワク感も好きなのだけれど、ひとつずつ灯火が消えていく苦しい受難節が終わり、再び一斉に火が灯される復活祭の日は、春という季節の後押しもあって、生命の芽吹きを感じるたまらなく好きな1日である。
ヘンデルは教会オルガニストとしてキャリアを始めたものの、劇場の音楽で名を馳せたということから、あまり宗教色強く語られることは少ない。 だけれど、私はヘンデルの音楽の情景ひとつひとつに、清冽な光と愛を感じることがある。 それは、《メサイア》のような宗教主題でも、《水上の音楽》のような宮廷の風景でも、「オンブラ・マイ・フ」のような自然の一場面であっても、常に同じように存在するものだ。 重要な謎が隠されているわけでも、大仰なメッセージが込められているわけでもない、自然のままに湧き出たメロディを紡いでいくことで生まれた、不思議な均整と調和。 そんなときに、ふと“神は我々と共におられる”という聖書の一節を思い出したりもする。 永遠に感じる暗闇に、はらりと差し込む一瞬のきらめき。 だからこそ、復活祭のこの時期に、ヘンデルの音楽を求めてしまうのかもしれない。
蟹座のひと ─ Sir Paul Smith
星占いがすき。 VOGUE girlの「しいたけ占い」は毎週欠かさずチェックするし、土曜日には石井ゆかり先生のnoteを読むのが習慣になっている。 やさしい文体で導いてくれる、「ELLE」のSaya先生の占いもすき。 クラシック・ファンとしては、月ごとのラッキー・クラシックを提案してくれる「ONTOMO」の青石ひかり先生の連載も忘れてはいけない。 どんなにゲッターズ飯田の占いが当たると言われても、12分の1の解説なんて意味をもたないと諭されても、星占いほどロマンティックかつ論理的な占いはないと思うのだ。*
星占い/星座占いと称されることが一般的であるが、私たちが一般的に触れているのは西洋占星術。 “ホロスコープ”という響きは単なる占い、というよりも星座の位置を読み解き、時代や運気の流れを掴むという意味合いを感じてより説得力が増す気がする。 ホロスコープとは、ある時間にある場所から見たとき、どの方向に惑星があったかを読み解く際に使う星の配置を表した天体図である。惑星、星座(サイン)、ハウス、アスペクトという4つの要素があり、それぞれをひとつずつ読み解くことで星からのメッセージを知ることができる。 星は常に動き続けているため、同じ誕生日でも生まれた時間や場所によって異なるホロスコープとなり、もちろん受け取るメッセージも人によって変わってくる(自分自身の本当の運気を知りたいのであれば、信頼できる西洋占星術の先生を見つけてきちんと計算していただくことをおすすめする)。
7月某日生まれのわたしの星座は蟹座。 蟹座、と言われて最初に思いつく著名人はポール・スミスである。* その名の通り色鮮やかなマルチストライプが看板のブランドPaul Smithの創始者であるが、彼の手掛けたデザインだけでなくその人柄にも多くの魅力がある。
英国ノッティンガムで生まれ育った彼は自転車レーサーを目指した少年時代を過ごし、交通事故で夢を諦めた時期を経てデザイナーを志す。その背景には入り浸っていたパブで意気投合した若手アーティストたちの存在がある。 いろいろな価値観の人と知り合い、交友関係を広げる。 自分がたくさん助けてもらったから、若手への支援は決して惜しまない。 有名無名を問わず、良いと思ったものには心から称賛の拍手を送る。 その姿勢は、「ポールスミス奨学金」にも表れている。
石井ゆかり先生の解説によると、蟹座は次の性格を持つ。
ポールはファッションをいう水を社会に与え続けている。 芸術にとって一番大切なことは、分かち合うこと。認め合うこと。与えること。 それは、彼を通して教えてくれた、蟹座からの一番のメッセージなのかもしれない。
*タロットやオラクルカードも神秘的でよいのだが、スピリチュアルなものよりも科学・数学・物理学のエッセンスもある西洋占星術がすき *「獅子座」といえばココ・シャネルである
7日間ブックカバーチャレンジ
Twitterで投稿していた、#7daysbookcoverchallenge(7日間ブックカバーチャレンジ)。 7日めを迎えたので、それぞれの本の紹介をしていきます。
7日間ブックカバーチャレンジとは?
読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、好きな本を1日1冊、7日間投稿。本についての説明は必要なく、表紙画像だけをアップ。 ■Day 1
森鴎外の娘にして大の食いしん坊、森茉莉の“おいしい”が詰まったエッセイ集。 鴎外の好きな食べ物や、子ども時代の食卓でのエピソード、日々の料理に関する話題まで、あらゆる食事に対しての茉莉嬢のこだわりがうかがえる。 もっともときめくのは、「私は大変なお嬢様育ちで……」と自身のステイタスをさらっと語りはじめるところ。でも、ちっとも嫌味に聞こえないのはどうしてなんだろう。 自分の年齢や立場を露ほども気にせず、まっすぐにロマンを語る彼女に、いつも憧れている。 ■Day 2
ここから世界がはじまる トルーマン・カポーティ初期短篇集(小川高義訳/新潮社)
『ティファニーで朝食を』で知られるカポーティの、思春期から20代はじめにかけて書かれた未発表作品を収録。 オードリー・ヘップバーン主演のきらびやかなラブストーリーがイメージされがちだけれど、本来のカポーティの魅力は、居心地の悪さや薄気味悪さ。 若い時代ならではのみずみずしい“奇妙さ”が、短いストーリーにぎゅっと詰め込まれていて、これぞ天才、と読み手を唸らせるような、洗練された文章と後味の悪い結末に終始どきどきしてしまう。 8歳から作家になったと自称するカポーティの、早熟な才能に目を開かされる14篇。 ■Day 3
日曜日はプーレ・ロティ ちょっと不便で豊かなフランスの食暮らし(川村明子/CCCメディアハウス)
パリのル・コルドン・ブルーで料理を学び、帰国後はさまざまなメディアで食に関わる発信を続けてる川村さんによる、パリ時代の食エッセイ。 ちょっと手間だけれど、ドレッシングやマヨネーズは手作りする。スーパーではなくて、マルシェで新鮮な野菜を調達する。フランスの食卓に欠かせない、チーズやバターのはなし。そして日曜の夜のお楽しみ“プーレ・ロティ(ローストチキン)”。 楽をしようと思えばいくらでもできるけれど、疲れた時こそちょっとだけ手間をかけて、おいしい時間を過ごしてみたら、いつもよりぐっと豊かなきもちになれる。 家での時間が増えた今こそ、新しく取り入れたい習慣が満載。 ■Day 4
ドイツ初期ロマン派の作曲家、ロベルト・シューマン。指の故障をしピアニストとしてのキャリアを断念したことがきっかけで、音楽評論家としての活動をはじめたことはどれほど知られているだろうか。 当時の音楽批評に満足していなかった彼は、ドイツの芸術ポエジーを取り戻すために「音楽新報」を創刊し、たくさんの論文をのこした。この本では、その多くを収めている。 ベートーヴェンやショパンなど名だたる音楽家たちへの鋭い批評や、ドイツ音楽史の貴重な資料としての価値はもちろんだが、わたしは後半に収録されているシューマンの「座右の銘」をつづった文章がすき。
生き方も音楽に対する姿勢も、完璧なロマン派! ■Day 5
ぼくのオペラ・ノート(黒田恭一/東京書籍)
クラシック音楽がすき、という少女に絶対に薦めているのは黒田先生の著書。 黒田先生の、何かを否定することは言わない・読み手を見下すような文章は絶対に書かない・ひたすら音楽とアーティストへの愛に溢れている・だけど的確で論理的で、初心者にもマニアにも響く解説をしてくれる…という姿勢は、はじめて読んだときからいまもわたしが文章を書く時の指針になっている。 すべてが必読だけれど、今回はオペラにまつわるこちらをセレクト。クラシック・コンサートの中でも、上演時間の長さやチケットの価格によって敷居が高くなっているオペラを、楽しくわかりやすく伝えてくれている。 黒田先生の魅力はもっとお伝えしたいので、またの機会に詳しく書くとする。 ■Day 6
夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語(カズオ・イシグロ著・土屋政雄訳/早川書房)
ヴェネチアのサンマルコ広場で演奏する流しのギタリストと、アメリカ人歌手とその妻が出会う『老歌手』をはじめ、音楽をテーマに人生の夕暮れに直面した人々を描いた短篇集。夫婦の危機、というのも共通したテーマである。 物語に登場する人物たちは、いつも何か不満や悲しみを抱えていて、才能に悩んでいて、そのせいで周囲の人を傷つけてしまったりもする。そうした中でも、うまくいかない現実と温かい出会いを、音楽が紡いでいく。壮大な人生論を語るのではなく、淡々と生活の一瞬一瞬を切り取るような描き方は、カズオ・イシグロならではの美しさ。 登場する音楽もクラシックやジャズ、アメリカの古いブロードウェイソングなど、ごちゃまぜになっている感じも良い。 『降っても晴れても』の主人公レイモンドいわく、彼らの時代は若者は二極化していて、プログレッシブロックを聴く長髪のヒッピーと、ツイードを着てクラシックを聴くタイプしかいなかった…とのこと。80年代イギリスのカルチャーシーンをおもえば、確かにそうだったのだろう。でもね、レイモンド。アルゼンチンタンゴを聴くけどエディット・ピアフも好きで、インディー・ロックも追いかけるあなたの甥、なかなか趣味がいいと思うの。 ■Day 7
“ユートピア”は、トマス・モアがつくった造語である。しばしば理想郷、と訳されることが多いが、ここでは少し違う。ギリシャ語を組み合わせて「どこにも無い」という意味を指し、非人間的・管理的な、モアが理想とする国を描いた物語だ。 人々はみな清潔な服を身につけ、財産を私有せず、空いた時間に芸術や科学研究を行う。戦争も、もちろんしない。これだけを聞くと、まるで夢のような国の話であるが、つまるところはかつて存在した社会主義国家の掲げていた政策であり、これらが失敗であったということは歴史上で明らかになっている。 価値観や思想がすべて統一され、規律をかねそなえ、争いのない機械的な世の中こそが、モアの描く理想だった。 …果たして、これが私たちにとっての“理想郷”なのだろうか。 民主主義が揺らぎ、国民が声を上げなければいけない状況のなかで、もう一度読み返し考えたいとつくづく思う。 単なるファンタジー小説として読むという楽しみも、それはそれで。
巴里のアメリカ人
在宅勤務になって、もうすぐひとつきが経つ。 最近の小さな楽しみは、週に1回スーパーでお買い物をする帰りに近くのお店でデリをテイクアウトすること。フランス人のオーナーが営んでいて、店内に入るといつもBonjour!と満面の笑顔で出迎えてくれる。そこでだけちょっぴり異国気分を味わえるのだ。 ムッシューのつくるニース風サラダは今日もとっても美味しくて、苦手なズッキーニもぺろりと食べてしまった。 ゆうべはバイオリズムの関係と偏頭痛で、仕事を早々に終えてベッドに潜り込んだ。眠れないので、映画をかける。晴れやかなラブコメディの気分だったので、『タイピスト!(原題: Populaire)』にきまり。
『タイピスト!』をみるたびに、フランスが憧れるアメリカ、というものを考える。 この映画、恋と仕事とタイプライターに励む女性が、支えてくれた男性と恋に落ちるラブストーリーと思わせて、「フランスvsアメリカ」を真っ向から描いた物語でもあるのだ。 そもそも仏映画といえば、ロメールやゴダールの作品に代表されるような哲学的なおしゃべりと憂いのある映像が定番。それにはハリウッドが作る大衆的なロマンス映画に対しての、「自分たちの作品のほうがウィットに富んでいて、すばらしいものだ」という自負すら覚える。 だから、こういった真逆の作品に出会うと、フランスの“ほんとうはもっている”アメリカ愛をひしひしと感じて、ときめきさえ生まれてくる。 フランス国内での争いを勝ち抜けて、最終戦で戦った相手もやっぱりアメリカ、というところもぬかりない。 きわめつけはこの台詞。 -アメリカ人はビジネスを、フランス人は愛を。 この言葉で、自分たちの国の誇りと知性を保っているのだろう。なんてわかりやすくて、愛おしい。 翌朝、起きぬけにかけたのはガーシュウィン。 フランス音楽に憧れながら、アメリカを代表とする作曲家として大成し、アメリカらしい音楽を貫いたひと。 ミュージカル映画『巴里のアメリカ人』は表題の通り、画家を目指す在仏アメリカ人の物語だ。パリに焦がれ、フランスで認められる音楽家になりたいともがいたガーシュウィンだからこそ書けた作品なのではないかと思う。
この曲の対に思い浮かぶのはラヴェルのピアノ協奏曲。 弟子入りを志願したガーシュウィンに、「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない」と言った話はあまりにも有名だけれど……。その音楽の裏には、溢れすぎるアメリカへの羨望があったんじゃないか。 だって、フランス人はひとをほめるとき、どんなによくても"C'est pas mal(悪くないね)"としか言わないもの。 それ、めちゃくちゃほめ言葉だよ。 アングロ・サクソン系の監督が撮ったスペインやイタリアでのバカンス映画とか、ソフィア・コッポラが東京を撮った『ロスト・イン・トランスレーション』とか、他国の目を通してその国の文化をみることは、いつも新鮮でみずみずしくて、だからやめられない。 近頃の海外文化と言えばどんどんドメスティックな流れになっていて、おしゃれ女子はこぞってハワイやタイに行き、流行はいつも韓国と上海から発信される。 ヨーロッパに憧れを馳せる少女は、もう絶滅危惧種なのかもしれない。 だけどやっぱり、私は欧米のカルチャー、とくにフランス文化を愛し続けたいとおもう。 歴史と伝統、そしてユーモアを、その作品から感じられる限り。
ニューヨーク アイラブユー
16日の朝、ラジオをつけると「本日はヘンリー・マンシーニの誕生日です」というアナウンスとともにムーン・リバーが流れた。5番街の風景を思い出して、ひとりでぐずぐずと泣いてしまった。そのまま勢いで、カポーティの原作を読み返す。 ぐずぐずと考えながら、ヘップバーンつながりで『ゴシップ・ガール』のシーズン1*もみて、わたしはニューヨーク、とくにマンハッタンがとても好きなのだと気づいた。 だからこそニューヨークに着いて真っ先に行ったのは市立図書館だったし、エントランスに並んだ2頭のライオンを見た瞬間の胸の高鳴りをいまでも忘れられない。 あのライオンのわきを、ホリーはすり抜けていったんだ、「ぼく」は彼女を追いかけて、この階段をのぼったのだろう・・・そんなことを考えながら過ごす時間がとても楽しかった。 METでブレアごっこをするのも、『プリンセス・ダイアリー』のミアよろしくプラザ・ホテルからセントラルパークまでダッシュするのも楽しかったけれど。
「ムーン・リバー」は、故郷の川を思い浮かべながら自分を励ます様子を描いたものだ。少女時代の夢を忘れずにいたいと願うと同時に、川の流れを人生にたとえ、その中で挫折や落胆を味わうか、夢を掴むかは自分次第、というメッセージもこめられている。 原作では「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい。」とホリーがうたう場面が出てくるので、彼女が自身の流浪な人生を肯定しようとしていると解釈することもできるだろう。 故郷が定まっていないからこそ、ホリーのニューヨークへの思い入れも格別なのである。
その次の日は、雨の中『ローマの休日』を観た。 アパートで料理をつくらせてと言うシーンも、ジョーとのお別れの場面も、何度見ても泣いちゃう。 叶わないけれど忘れたくない大切な恋というロマンス映画としての感動も大きいけれど、わたしはなにより、自分の運命は自分で決めるの、というアン王女の気高さと強かさにいつもあこがれている。 『ローマの休日』はもちろん舞台はローマだし、アン王女はヨーロッパ某国の王妃だけれど、わたしはこの映画はとてもアメリカ的だとおもっている。 ジョーがアメリカ人だから、とか製作国がそもそもアメリカだから、というのはもちろんだが、1920年ごろから始まったアメリカ芸術の勢いが全盛期を迎え、伝統的なヨーロッパ文化から脱却し、新しい思想や恋愛観を肯定していることが大きいのかもしれない。 ニューヨークもローマも、いまとても大変なことになっている。 街中に遺体安置所が置かれ、セントラルパークもスペイン広場も、平穏な場所ではなくなっている。 その様子は、すでに戦争状態である。日本も、例外ではない。 カフェのテラスでお茶をしたいし、ベスパで街中を駆け巡りたいし、天気のいい日に公園でアイスクリーム頬張ったりもしたい。 でも、いまはそれをすべきではない。 ヘップバーンの、戦争が終わって、戻ってきたもののありがたみや人の命に感謝の念をもつようになった、という言葉に共感できる日がきてほしいと願うことになるとは思わなかったけれど、わたしも恥ずことなくその気持ちをもつことができるよう、いまを大切にすごしたい。 もし彼女が現代にいたら、きっとこう言うんじゃないかな、と勝手に考えてみたりもする。
ねえ、この戦争が終わったら。 あなたにはわからないと思うけど。したいことをするの。一日中ね。 *1) 本作に登場するBことブレア・ウォルドーフはオードリー・ヘップバーンを崇拝しており、その様子は作中にもファッションや発言などで表されている。
ロンリネス・ロマンス・グールド
なんかもう、この絵、最高じゃないですか。 グレン・グールドは独特な演奏スタイルが話題になったり、日本だと坂本龍一セレクションをリリースしていたりということもあって、「クラシックは聴かないけれどグールドは好き」というひとが一定数いる稀有な演奏家のひとり。 ゆえに、「自分はクラシック音楽ファンだ」という自覚があるにとってはミーハーな感じがして、なかなか声高らかに好きなアーティストとして挙げるのを躊躇うこともあるのではないか。わたしもそうだった。 クラシックピアニストなのにサブカルっぽくて、なんか相容れないなあと関わらなかった時期も長いけれど、やっぱり良いものは良い。 本来なら私は、わりと正統派にわかりやすい演奏をしてくれるひとが好み。それこそカラヤンとかクライバーとか、最近ならカンブルランやプレトニョフ、ピアニストだとケフェレックとかベレゾフスキー。だから彼は完全に”カウンター”なのであった。 …だけど、それゆえに気になる。 だって、自分と違うものをもっているひとって、好きになっちゃうじゃないですか。 一匹狼でちょっと変わっている、でも天才肌なクラスメイトにひそかに憧れていて、彼の魅力に気付いているのは自分だけだと思っていたのにわりとファンが多いことにある日気づいて寂しくなる、そんな女子学生の気分。ぜんぜん孤高じゃないじゃん、って。 グールドのバッハって、ガーリィなんですよね。不安定さ。儚さ。一瞬のきらめき。あんなに安定したバッハの楽曲が、こんなにも揺らぐ。 オリーブ少女とかが聴いていそう(偏見)。 女性の弾き手の演奏だけが、ガーリィじゃないんだからね!!! …四の五の述べましたが、この動画は「雰囲気が好み」、それだけなんです。
■Selection マイ・ベスト・オブ・グールドはもちろん、彼のセルフ・セレクトによるこちらのアルバムです。 リトル・バッハ・ブック(2012年・SMJ)